詩集『道』を買って読んだ。
詩は長ながとした散文ではないし、日本固有の俳句や短歌ともちがう。ソネットという定形詩はあるが、詩が詩でなければならないのは、次のような喜多井作品が答えている。
「背 中」
いつも強がりを言っている人がいる
近寄ってみると
背中に滲んでいるものがみえる
そっと手を添えてみる
短ければ詩であるとは言えないし、説明的な内容なら他の分野にまかせればいい。「背中」には人生を重ねた者の思考があり、他者を哀れみながらも愛しむやさしさが詠まれている。
現代詩のように抽象の世界に逃げ込み、自分さえ解かればいいという風潮はもう長く続くが、だからといって、ゲンコツを掲げれば評価されるような労働歌もいただけない。わたしは八木重吉や峠三吉、増岡敏和の詩が好きだが、いずれにも人間賛歌の底流が見える。
喜多井作品の「叔父さん」にも同じ波形が見えた。
再会と新しい出会いに
希望があるから
人はいくつも別れを重ねて生きている
再会にならない異質の別れもあって
それは つらく かなしい
八十歳の誕生日を目前にして
叔父さんが さよなら をした
ダンディーで
誰にもやさしくて
隣人や友人達は号泣した
親しい者達は思い出が蘇り
生涯を思い遣って
深い別れを味わった
足柄山から吹いてくる風に包まれて
秋の日は澄みわたっていた
叔父さんの得意だった 正調木曽節
遠く 低く 聞こえた気がした
ならしの文学会でも詩の勉強会をしたり、信州の大島博光記念館にも行った。自分が得意とする分野から抜け出て、こうしたいい詩に学ぶことは自らの文章力をきっと高めるだろう。同詩集には少なくない価値ある随想も載っている。
(OFFICE KON発行、1500円)
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