「入社の採用が決まりました。打ち合わせに来てください」
木造二階建ての古い事務所へ出向いた。
「給料は8000円ですが、昼食は共同の食堂で支給します」
腰痛のため長時間勤務に耐えられなく、アルバイトを繰り返していたわたしは、出された条件もほとんど記憶になかった。何しろ安定した仕事に就きたかった。
「わかりました。よろしくお願いします」
回答したものの、よくよく考えてみると薄給も薄給すぎた。
1968年当時、少ない給料のアルバイトでも14000円をもらっていた。アルバイトの半額である。うたごえ運動の新聞や雑誌を編集する仕事というので、まだ盛んだった歌声喫茶の歌集か何かを作るのかと思った。
入社して2、3日した夜、ささやかな歓迎会を開いてくれた。編集部と、そこを統括する指導部の人たち7、8人が畳の宿直室でだった。こうした風景は何ともノスタルジックに見えるが、貧乏所帯そのものだった。
酒もはいり三々五々、帰途につく人たちをよそに、わたしは一人の先輩男性と激論していた。
「民主主義は経験がある、ないに関わらず平等でなければならない。こんな安い給料でよく人を雇いますね」
そんな若気のわたしに、相づちを打ちながらも反論される。
「しかし君、経験もまた重要な蓄積なんだ。この運動もそうした蓄積のうえに大きくなってきた。君だけが安い給料ではないんだ」
何しろ入社直後の若僧のわたしは、運動の右も左も知らない。なのに、哲学や大衆論は片かじりしていたから、始末におえなかったのだろう。家庭もある先輩は、終電車がなくなってもわたしにつきあっていた。
うたごえ運動は、関艦子(あきこ)が戦後すぐ提唱して起きた「世界に類ない大衆音楽運動」と評され、毎年、日本武道館などで5万人の音楽会を開いていた。先の先輩こそ、やがて、うたごえ運動の議長になる杉浦敏郎氏その人だった。
一通の手紙が届く。
〈「文章を書くという行動は、あらゆる生きものの中で人間だけが得た、すばらしい行為です」という貴兄の言葉は、ずしりと胸に落ちました。僕はものを書くという折角の特権を今回、改めて感じとりました〉
わたしが東京で講師を務めるカルチャー教室に来られ、講義を受けた先の先輩の感想である。深夜の歓迎会の激論から四十数年がたっている。
さらに手紙はつづく。
〈「やさしい文章教室」に参加した動機は、人生の仕上げを迎える年齢にきた今、子どもや孫たちに何かを伝えたいという思いからです。何のために何をと問われると赤面しますが、貴兄と共に仕事をしてきて、貴兄の筆致、濃密な文章に脱帽してきました〉
赤面するのは、わたしの方だが、大運動の指導者だった人にこんな手紙をもらって、面くらう自分がいる。
最後は次のように結んであった。
〈僕は人生の先輩だが、文学を通じて僕の何倍もの人生を知り、たくさんの人びとを啓発してきた貴兄は、僕の及ぶところではないと常づね思っていた。貴兄の教室指導に首(こうべ)をたれることに何の躊躇があろうか。喜んでまじめな生徒になろうと思います〉
何という激励か、何という叱咤か、いよいよ筆は重くなるが、これまで生きてきたように、いよいよ全精力を傾けて講座に向かおう。
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