〈追悼文例題1〉
墓に散る落ち葉
「僕の家によく隠れて来るんだよね」
友人の先生がうれしそうに言う。
関口勲先生は長らく千葉県で高校の教壇に立っていた。専科は国語である。そして、隠れて来るという人は作家の椎名誠氏。彼は海外によく取材に出かけている。作品には外国でのエッセイが多い。その途中、成田空港近くの先生宅に椎名氏は寄るらしい。
関口先生と椎名氏の出会いは高校のとき。千葉市幕張で成人まで過ごした椎名氏が、のちの作家という仕事に国語の先生であった関口先生からどれだけ影響を受けたのか。
先日、豊島区の文章教室「文芸ふくろう」で雑司ケ谷霊園を文学散歩した。同所に眠る夏目漱石と大塚楠緒子は恋人かどうか学んだばかりだし、羽仁もと子も、参考にした与謝野晶子の厭戦歌「君死にたもうなかれ」を実践した先人だ。
ところが、案内人が「あまり知る人は少ない」からと外したなかに、演出家の村山知義が埋葬されていた。知る人ぞ知る反戦文化人。さらには、短歌結社「まひる野」の窪田空穂と継承の息子・窪田章一郎の墓もあった。
「まひる野」は、やがて馬場あき子や篠弘を世に出すが、章一郎はかの関口先生の恩師。早稲田大学で短歌を教えてもらった師弟関係らしい。
「僕は不真面目で授業もろくに出なかったんだよ。今、思うと章一郎先生にもっと教えてもらえばよかった」
そう言う関口先生は教壇から降りても短歌をつづけ、全国的な結社・新日本歌人協会の編集長を務めていた。
文学散歩は秋も深まった青天の日だったが、会員のひとりが参加できなかった。安藤宏氏は一級建築士で現役を勤めあげ、奥さん同士が友人だった岩坪勝代表に誘われて入会していた。
「東京オリンピックのメーン会場にお金をかけすぎるんじゃないですか?」
教室の帰りに一緒だったわたしが聞く。
「そうですね、最近は外見ばかり重視して機能性は二の次。建築界も原点を見つめ直さないと……」
寡黙な安藤氏がいつもは見せない口調の強さで語った。
JR大塚駅から彼は品川まで山手線で行くが、わたしは途中の秋葉原で乗り換える。たった15分ほどの会話は、けして文学談にしなかった。わたしの知らない建築の話題を選んだ。
その安藤氏が急逝し、小春日和の文学散歩にいなかった。お酒が好きならもっと酩酊するほど飲み合いたかったと、散歩のあとの懇親会で思った。
雑司ケ谷墓地に眠る多くの先人の墓に、まだ早すぎる落ち葉が色染めて土に舞っていた。
〈追悼文例題2〉
「わたしが乗りかえる品川駅南口は大変貌していますよ。新しい駅もできるし、どんな街になるのか楽しみですね」
豊島区で開いている文章教室「文芸ふくろう」の帰路、同じ電車に乗った会員の安藤宏氏が目を細めて言った。
「かつて、品川駅の海側は労働者であふれかえり歩くのも大変でしたね。今はオフィス街に変わって、労働者が朝から飲める屋台なんか1軒もないみたい」
わたしも若い頃、当時の国鉄(現JR)労働者に連れられて飲んだ店を思い出していた。
まだ高校生の時だった。千葉駅に待ち合わせていたのは同級生の宮澤博クン。シートで覆われたトラックに手配士が集めた日雇い労働者と一緒に乗せられ、着いたのは川鉄(現JFE)。それから昼夜、構内を移動しながらのバイトが始まった。特大弁当とともに「いこい」という煙草が配られた。
夏の炎天下、鉄屑の仕分け、体育館のような船倉で20㎏余の鉄塊荷上げ。わたしは柔道、彼は野球で鍛えた体だったが、1週間の予定は3日で音をあげた。人生で一番きつい仕事だった。人夫のおっさんたちは涼しい顔で働いていた。1日1万円のバイト代は普通の3倍近かった。
「安藤さんは建築の仕事だからインテリ層、あの品川芝浦で焼酎を飲んでいる労働者は」
と言いつつ、わたしは、あの高校時代の死ぬ思いで見た労働現場を思い出していた。
それから短い時間、電車の中で4年後の東京オリンピック会場建築や都市建築変貌の話を安藤氏から聞いた。
その氏がアッという間に急逝し、教室に来れなくなったのは1週間後だった。
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